こんにちは。岡田智則です。
今回は、ルネサンスの音楽について解説します。
ルネサンス期
理論家であった、フィリップ・ドゥ・ヴィトリが新しい14世紀の音楽についての理論書「アルス・ノバ(新芸術)」を発表したことにより、14世紀全体の音楽がアルス・ノバと呼ばれるようになりました。ルネサンスの音楽は、このアルスノバ期からルターによる宗教改革までの14世紀〜16世紀までの音楽様式を指します。
ルネサンス音楽の特徴は以下の3つです。←必ず暗記
- 本格的なポリフォニーの時代になった
- 定量記譜法がいっそう精密になった
- 音楽が世俗性を指向するようになった
アルス・ノバ
先述の通り、理論家であり作曲家であったフィリップ・ドゥ・ヴィトリは、1322年〜1323年にかけて14世紀の音楽の特徴を示した理論書「アルス・ノバ(新芸術)」を書き上げます。←必ず暗記
この理論書の発表により、14世紀の音楽をアルス・ノバと呼ばれるようになりました。
アルス・ノバの最大の特徴は音価の分割法に見られます。
13世紀以前の音価の分割法は、3分割法しかなかったに対し、14世紀に入ると2分割法が加わったと記されています。これにより、4分の2拍子や8分の6拍子が誕生し、拍節感の進歩が見られるようになりました。←必ず暗記
キリスト教では「3」という数字が完全性を示すため、3拍子系は完全分割、2拍子系は不完全分割と呼ばれていました。
アルス・ノバの楽曲
14世紀に、ローマ教皇庁がフランスの王権によりアビニョンに移されたことにより、ヨーロッパの教会の権威が衰退し、音楽構造も世俗音楽が中心に置かれるようになりました。
この時期に盛んに作られた楽曲がモテトゥスです。
モテトゥスとは、定旋律に使用されている歌詞を説明するためのセリフを最上声に持ってくる手法のことです。はじめは、その声部をモテトゥスと呼ばれていましたが、次第に、その技法が用いられた音楽がモテトゥスと呼ばれるようになりました。
モテトゥス自体は、13世紀に誕生し、世俗声を強く持った各声部の独立性を強調したポリフォニックな音楽として発展していきましたが、アルス・ノバでは長大な楽曲として作曲されるようになります。その代表的な作曲家が教会音楽作曲家のギョーム・ドゥ・マショーです。
マショーは、基本的に3声部で音楽を構成し、最上声のみを歌わせ、下2声を楽器で演奏する楽器伴奏の独唱歌曲を確立させました。彼は、この形態を用いて、バラードやロンドー、ヴィルレーといったポリフォリックの長大なモテトゥスを23曲ほど残しています。←必ず暗記
アルス・ノバの時代は教会音楽作曲家によって世俗音楽が発展した時期ではありますが、教会音楽では、ミサ通常文を基盤にしたミサが盛んに作られるようになりました。
代表的な作品に、ギョーム・ドゥ・マショーの「聖母のミサ曲」があります。この曲は、5つの通常文に、イテ・ミサ・エスト(閉際の言葉)を加えられます。また、短い詩が唱えられるキリエ、サンクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エストは、対位法的でメリスマ旋律を用いる様式で、グロリアとクレドは、音節的で1音符対1音符の様式で作曲され、楽曲間の統一性が試みられています。←必ず暗記
14世紀イタリアの世俗音楽
フランスでは、フィリップ・ドゥ・ヴィトリの功績が目立っておりましたが、同時期、ヴィトリに類似する新しい技法がイタリアでも展開されます。
イタリアのマルケット・ダ・パートヴァは、「単声音楽の輝き」と「定量記譜法の果汁園」を著し、音価の分割法を示しました。←必ず暗記
フランスではアルス・ノバの音楽に対し、イタリアではトレチェントの音楽と呼ばれていました。
イタリアでもアルス・ノバ同様に世俗音楽を中心に展開され、代表的な作曲家にランディー二にがいます。彼は、恋愛詩や田園詩を題材にした上声2声と下声を楽器で演奏させるマドリガーレや、狩猟を題材にしたカッチャ、ダンス音楽として始まったバッラータといった世俗音楽を多く残しています。
ブルゴーニュ楽派
15世紀に、フランスの国王フィリップは、ブルゴーニュ地方に加え、フランドル地方をも領有し、ブルゴーニュ公国と定めました。ブルゴーニュ公家は音楽にも関心が高く、西欧各地から優れた音楽家たちをディジョンに集め、音楽活動を行わせました。そこで生まれた新しい様式をブルゴーニュ楽派といいます。
ブルゴーニュ楽派は、ヨーロッパ各地から音楽家が収集されたため、それぞれの地域の特徴が融合された国際様式が特徴で、なかでも「フランスの卓越された作曲技法」「イタリアの流麗な旋律」「イギリスの3度・6度音程の使用」はその根幹であり、特にイギリスの特徴は後の和声音楽への発展を促せました。←必ず暗記
15世紀に入ると、教会の権威が復活し、音楽もミサを中心とする教会音楽が盛んに作曲されました。教会には礼拝堂が充実し、そこには礼拝堂楽団(カッペッラ)が設立され、宗教音楽も大規模なものが作曲されるようになりました。
また、ミサ以外にも、自由な形式で宗教的な詩を歌詞とするモテトや、聖母マリアが神の子を身ごもった自信と責任を語ったマニフィカトも多く作曲されます。
フランドル楽派(ネーデルランド楽派)
ブルゴーニュ公国がフランスの王領に併合された後、音楽家たちはフランドルへ移り、ブルゴーニュ楽派を発展させていきました。これをフランドル楽派(ネーデルランド楽派)といいます。ブルゴーニュ楽派の延長といった形ではありますが、フランドル楽派の作曲家たちは、ヨーロッパ各地へ散らばりフランドル楽派の技術を伝えていったという相違点が見られます。
フランドル楽派で大きな功績を残したのが、ジョスカン・デ・プレです。
フランドル楽派の音楽は、ポリフォリーの各声部が重要性の点でほとんど同等の価値を持つこと、均質な音質で歌われることが目指されました。←必ず暗記
そこで彼は、伴奏付きの歌ではなく全ての声部を歌わせる様式を考え、各声部2名による合唱が礼拝堂で響く形態を確立し、無伴奏の合唱を礼拝堂で歌うア・カッペッラ様式とスタイルを作曲に使用しました。代表的な作品に「パンジェリングのミサ」や「聖母被昇天のミサ」があります。←必ず暗記
また、反行カノンや定測カノン、二重カノンなどポリフォニーにおける模倣法の発展や、ファルソボルドーネと呼ばれる4声のホモニズム的音楽も確立させました。
フランドル楽派の楽種は、ブルゴーニュ楽派と大きな違いはなく、宗教音楽ではミサやモテトが盛んに作曲され、世俗音楽では、4声の合唱で歌われるシャンソンが流行していきました。
宗教改革
1517年、ルターはローマ教皇庁に「95ヶ条の程題」を発表したことにより、教皇庁を弾刻、さらには教皇の権威まで否定しまう形となってしまい、一旦教皇庁より破門されてしまいました。
しかし、ルターを支持するドイツの諸侯が相次ぎ、そのプロテスタントたちがローマ教会を支持する神聖ローマ皇帝カール5世に激しく抗議したことをきっかけに、1555年、アウグスブルグの和議でルター派の自由は公認されました。
これに対し、カトリックも改革運動を展開され、北イタリアでパウルス3世とカール5世主催によるトレントの宗教会議が開かれ、「教皇の至上権の確認」「新教教義の否定」「宗教裁判や禁書目録設定」が決定しました。
しかし、音楽は芸術的な感動ではなく「祈りとしての感動」をもたらすものとして、フランドルて展開された多声音楽や対位法が禁止されたり、批判されることはありませんでした。
ローマ教皇庁は「反宗教改革の理念を遵守するための音楽」を要求し、各地に散らばっていったフランドル楽派の作曲家たちは、その地域の伝統音楽を発展させる多声旋律の音楽を確立させていきます。
ローマ楽派
フランドル楽派出身のパレストリーナがローマで展開した音楽活動をローマ楽派と言います。
トレントの宗教会議により、「反宗教改革の理念を遵守するための音楽」が要求され、パレストリーナは、「祈りとしての感動をもたらす歌詞を聞き取りやすくした多声音楽」を作曲しました。その代表的な作品が「教皇マルチェリウスのミサ」です。←必ず暗記
パレストリーナは、半音階的手法を極力使用しないことにより、清澄な響きを基調とした音楽を作曲しました。また、ジョスカン・デ・プレの伝統を受け継ぎ、フランドル楽派の模倣的対位法をベースに、最上声を浮き出させたり、最下声部に和声進行を予感させる4度上昇や5度下降の動きを見せたりしました。←必ず暗記
パレストリーナは、ミサ曲を多く作曲し、言葉の多いグロリアとクレドはできるだけ歌詞を重ね、言葉の少ないキリエ、サンクトゥス、アニュス・デイは対位法を用いながらも言葉がはっきり聴こえるように作曲されています。
ベネツィア楽派
フランドル楽派出身のウィラールトがベネツィアで展開した音楽活動をベネツィア楽派と言います。
彼は、サンマルコ大聖堂の学長を務め、多くの弟子を育てながら新たな合唱形態を確立させます。
そこの大聖堂には2台のオルガンが左右に設置されていいたため、2つの音源を有する様式が考慮されていきます。ウィラールトは、左右のオルガンと2組の合唱団が交互に呼応し、最後に全体合唱をおこなう複合唱形式(二重合唱)を確立させました。←必ず暗記
この様式は、弱と強の対比として後の協奏形式の原型になるものです。
この複合唱形式は、後に3つないし4つとパートが増えていき、当時イタリアでは5声の音楽が主流ではあったが、15声以上の大編成の音楽が作られるようになっていったのです。
フィレンツェ楽派
フランドル楽派の活動が盛んだった16世紀初頭、フィレンツェの宮廷ではフロットラという世俗音楽が流行していました。
フロットラは、最上声の旋律とそれを支える下声部の和音伴奏の異なったリズムを同時に演奏する同時リズムを使用した音楽で、音楽的には類型的なものであり、当時のフランドル楽派の音楽から見れば、芸術的に優れたものとは言いがたいものでした。
この状況にあったフィレンツェに、フランドル楽派から優れた作曲家が訪れ、中でも、モーリーの活躍は著しいものがあり、彼を中心としたフィレンツェで展開された音楽をフィレンツェ楽派といいます。
彼は、フロットラの音楽を土台に、マドリガーレという5声の世俗音楽を作り出しました。マドリガーレとは、歌詞にペトラルカのソネットなど価値の高い詩が用いられ、フランドル楽派の対位法に同時リズムを組み合わせる手法で作られた音楽です。
ヨーロッパ各地に散らばったフランドル楽派の作曲家たちは、反宗教改革の理念を遵守するための音楽だけでなく、各地で流行していた音楽様式をベースにフランドルの作曲技術を組み合わせることで音楽の芸術性を向上させていったのです。
試験対策(例題と模範解答)
以下の用語について記述せよ
アルス・ノバ | 理論家で作曲家あったフィリップ・ドゥ・ヴィトリは、1322年から1323年にかけて14世紀の音楽の特徴を理論書「アルス・ノバ」に著した。その最大の特徴は音価の分割法に見られ、13世紀以前のアルス・アンティカでは3分割法しかなかったのに対し、14世紀からは2分割法が加わったと述べられている。これにより8分の6拍子や4分の2拍子の音楽が登場し、拍節感の進歩が見られるようになった。 |
モテトゥス | オルガヌムから発達した音楽で、定旋律の上声部に定旋律の歌詞を説明するための歌詞がつけられるようになり、その声部をモテトゥスと呼んでいたことから、いつしかその形態を用いた音楽自体をモテトゥスと呼ばれるようになった。音楽そのものが世俗声を強く主張し、各声部の独立性を強める特徴が見られる。アルス・ノバ期に入ると、バラード、ロンドー、ヴィルレーと多声で楽器伴奏の独唱歌曲なものへと発展していった。代表的な作曲家に、教会作曲家のギョーム・ドゥ・マショーがいる。 |
アルス・アンティカ | アルス・ノバ期に先立つ、13世紀半ばに終わりをむかえるノートルダム楽派の活動後の後を受けて、アルス・ノバの時代にいたる前後70年ほどの時期をアルス・アンティカ(古芸術)という。定量記譜法がより一層精密になり、オルガヌムから発展したモテトゥスと呼ばれる新形式の音楽が隆盛期をむかえることになる。 |
トレチェント | フランスのフィリップ・ドゥ・ヴィトリの功績に対し、イタリアではマルケット・ダ・パートヴァがそれに類似する業績を残している。彼は、「単声音楽の輝き」と「定量音楽技法の果汁園」を著し、音価の分割法を記した。イタリアでは14世紀を指してトレチェントの音楽といい、アルス・ノバ同様に世俗音楽を中心に展開され、マドリガーレ、カッチャ、バッラータといった楽種流行した。 |
ブルゴーニュ楽派 | 15世紀に、フランス国王フィリップはブルゴーニュ地方に加え、フランドル地方も領有し、ブルゴーニュ公国と自称した。そこのディジョンにヨーロッパ各地から優れた音楽家を招集し、展開された音楽活動をブルゴーニュ楽派という。さまざまな地域の優れた特徴が融合された国際様式が特徴で、中でも「フランスの卓越された作曲技法」「イタリアの流麗な旋律」「イギリスの3度・6度の使用」はその根幹であり、特にイギリスの特徴は、和声音楽への発展を促した。15世紀に入ると教会が権威を取り戻したことにより、礼拝堂が充実し、礼拝堂楽団(カッペッラ)が設立され教会音楽が興隆した。ミサ以外にも、宗教的歌詞を用いた自由形式のモテトや、聖母マリアが神の子をみごもった自信と責任を言葉にしたマニフィカトも多く作曲されている。代表的な作曲家にデュファイやバンショアがいる。 |
宮廷シャンソン | 15世紀は、ブルゴーニュ楽派によって教会音楽が盛んに作曲されていったが、宮廷文化が華やかさを誇った時期でもあり、世俗音楽も少なからず発展していった。楽種はバラードやロンドーも見られたが、次第に3声・4声で作曲された宮廷シャンソンが流行していった。演奏形態も、楽器伴奏付きの独唱歌曲が次第に4声全て歌われるようになり、作曲手法には模倣法が導入され、フランドル楽派に受け継がれていく。 |
ジョン・ダンスタブル | 13世紀に書いたとされている最古のカノン「夏は来りぬ」で使用されている民謡的で多声音楽の技法を基に、イギリスのジョン・ダンスタブルは、3度・6度音程を自由に使用し、ミサ曲やモテトゥスを作曲した。さらに、近世以降の和声法につながるような不協和音の使用や、即興的で優美な旋律を書き、ミサの定旋律に同一の定旋律を使用して音楽の統一をはかるテナーミサを確立した。 |
フランドル楽派 | ブルゴーニュ公国がフランスの王領に併合されたのち、音楽家たちはフランドルへと移り、ブルゴーニュ楽派を発展させていった。ブルゴーニュ楽派の延長ではあるが、フランドルからヨーロッパ各地へと音楽家や音楽様式が出ていったという相違が見られる。フランドル楽派の音楽は、ポリフォニーの各声部が重要性の点でほとんど同等の価値を持つこと、均質な音質で歌われることが目指され、伴奏付きの歌ではなく全ての声部が歌われた。また、響きとしては、各声部2名による合唱が礼拝堂で響く状態が望まれ、無伴奏の合唱を礼拝堂で歌うア・カッペラ様式が用いられた。その模倣法は、単純カノンから次第に、反行カノン、定測カノン、二重カノンへと発展していく一方で、ファルソボルドーネと呼ばれる4声のホモリズム的音楽も見られた。楽種は、教会音楽ではミサ曲やモテト、世俗ではシャンソンが主流であった。代表的な作曲家にジョスカン・デ・プレがいる。 |
ローマ楽派 | トレントの宗教会議により、反宗教改革の理念を遵守するための音楽要求され、フランドル楽派出身のパレストリーナが祈りとしての感動をもたらす歌詞を聴き取りやすくした多声音楽を作曲した。半音階的要素を極力無くし、模倣的対位法を基盤に、最上声を浮き出させ、最下声に和声進行を予感させる4度上昇や5度下降の動きを見せた。パレストリーナは、ミサを多く作曲し、言葉の多いグロリアとクレドはできるだけ歌詞を重ね、言葉の少ないキリエ、サンクトゥス、アニュス・デイは対位法を用いながらも言葉がはっきり聴こえるように作曲されている。 |
ベネツィア楽派 | ヨーロッパ各地で活躍していた作曲家の中でもウィラールトが開いたベネツィア楽派の活動は著しいものがあった。彼は、サンマルコ大聖堂の学長を勤め、その大聖堂には2台のオルガンが設置されていたため、2つの音源を有する様式が考案された。左右のオルガンと2組の合唱が交互に呼応し、最後に全体合唱をする複合唱形式(二重合唱)を確立させ、この弱と強の対比はのちの協奏形式へと発展する。この音源は3つ乃至4つへと拡大し、15声からなる壮大な合唱曲も作られるようになっていった。 |
フィレンツェ楽派 | 16世紀初頭、フィレンツェの宮廷ではフロットラと呼ばれる世俗音楽が流行していた。この音楽は、最上声の旋律とそれを支える下声部の和音伴奏の異なったリズムを同時に演奏する同時リズムを使用した音楽で、音楽的には類型的なものであったため、芸術的に優れていたものとは言いがたった。この状況にあったフィレンツェにフランドル楽派の作曲家が訪れ、フロットラの音楽土台に、マドリガーレという5声の世俗合唱を作り出した。この音楽には、ペトラルカのソネットなど価値の高い歌詞が使用され、フランドル楽派の対位法に同時リズムの手法が組み合わされた音楽である。代表的な作曲家にバードやモーリーがいる。 |
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